雨女 VS 晴れ女
朝、7:00――薄暗い灰色の空から、雨が降っていた。
柳美里さんや、(『交換日記』や『8月の果て』にも登場する)佐藤千恵子コーチと一緒に走るマラソンは今日のメインイベントだ。悪天候が相手では文句も言えないけれど、せっかくこれまでいろいろな準備を整えてきたのだから、このまま中止にはなってほしくない。
とりあえず、スタッフ全員がホールに集合してセッティングを始めることにした。

今回、大塚製薬さんの御厚意で、スポーツドリンクやゼリー飲料などを大量に寄贈していただいたので、それらの品々もテーブルに積み重ねる。「何だか、CMの撮影みたい」などと笑い合っているうちに、参加するひとたちがランニング用のウェアとシューズ姿で続々と集まってきた。
雨はまだ静かに降り続いている。

「千恵子と私の対談というよりも、みんなで円陣になって話しませんか」
柳さんの提案で、参加者全員が椅子を引っぱってきて輪になり、今回走ろうと思ったきっかけや、走ることに対する思いなどを語り合った。
日本占領下にあった韓国のマラソンランナーだった、柳さんの祖父の人生をモデルとした長編小説『8月の果て』(2004年8月刊行:新潮社)の執筆のために、自ら2002年3月の東亜ソウル国際マラソンに出場し、42.195kmを走り抜いた柳さん。
レースが終わった後も、走ることは柳さんの生活の一部となっている。
「千恵子と走る時は、ずぅっとお喋りタイムなんですよ」
佐藤千恵子コーチはその時以来のパートナーかつ親友で、普段一緒に走る時は、1〜2時間ずっと話し続けながら走っているそうだ。
全員がジャージとスニーカー姿ということもあってか、いい意味で緊張感のないトークコーナーになり、
“作家・柳美里”と“読者”という距離が、ふっと宙に解けたようだった。

「いちばん大切なことは、怪我をしないでほしい、ということです」
佐藤コーチの指導の下、床にマットを敷いて、ランニング前のストレッチ。全身をほぐしたり伸ばしたり、二人一組で柔軟体操や筋トレをしたり、エアロビクスのように音楽に合わせて前後左右に跳んだりはねたり、予想以上にハードな準備運動に息が上がってくる。
「これの後で走るんだよね……20km……」
スタッフの一人が呟いた声に、隣にいたひとが今更のように目を見張り、ぷっと吹き出した。


皆、暑い暑いとタオルで汗を拭い、スポーツドリンクを飲みながら、重ね着していたものを脱ぎ捨てていった。何だか、体育会系サークル活動のような光景である。
「あっ、雨やんでますよ!」
誰かの声に、一斉に窓の外を見やると、いつの間にかうっすらと陽が差していた。
気まぐれな天気は、どうやら私たちに味方してくれたらしい。
ランニングシューズの紐をきちんと結び直し、各自のウェアの上に、この日のために注文制作したオリジナルのフリースをはおって、ホールを出発!
「よかったよかった、雨で中止にならなくて……」
走るコースは街の中ではなく、海が見える山道なので、スタート地点までは車に分乗して移動する。
「私、雨女なんですけどね」と、柳さん。 「晴れ女なんです」と、私。
勝った!(笑)
Start!

AM11:30――伴走車のスタッフ・hakkaさんたちに、行ってきまぁす、サポートよろしくぅ! と声をかけつつ、ランニング開始。
同時に、別のスタッフがレポート用の動画も撮り始めたのだが、撮影者自身が走っていたので、映像も跳びはねるように揺れてしまう。しかも、その苦労の割には、走っている人々の姿というのを延々撮り続けても「さほど面白くナイ」ということで、ほどなく断念した。
「あっ、まっすぐ、まっすぐ!」
先頭は、自称に違わぬ方向音痴の柳さん……のっけから道を間違えかけて、後ろから佐藤コーチが大声で呼んだ。
競技のマラソンとは違い、みんな会話ができる程度の速さ(時速7〜8km)で楽しく走りましょう、ということなので、喋ったり笑ったりしても、そう息は上がらない。
「行きは上り坂が多いんだよね」
「上ったり下ったり、ですよ。でも上りの方が多いかな。帰りは楽です!」
なだらかな上り坂が続く。
大勢のひとと一緒に走るなんて、何年ぶりだろうか。
どう贔屓目に見ても運動神経が良いとはいえないのだけれど、走ることは昔から好きだった。
誰に恥じることも憐れまれることもなく、堂々と独りでいられるから好きだった。
友達と並んで一緒に走りたい、と思ったことは一度もない。
『交換日記』、そして『8月の果て』を読んだ時、いつか柳美里さんと一緒に走りたい、と初めて思った。
誰にも言えない、大切な夢だった。
まさかこれほど早く現実のものになるとは、想像もしていなかった。

「わぁ、綺麗……見て!」
佐藤コーチの声に、思わず皆から歓声が上がった。
道の右側、眼下いっぱいに碧く澄んだ日本海――。
陽の光を受けて、白い波がきらきらと穏やかに揺れる海は、遠く水平線まで見渡せる。
前日の質問コーナーの一場面をふと思い出した。
「好きな色は何ですか?」という問いに、
「昔から、海の色と紫陽花の色、です。理由は“変わるから”」
と答えていた柳さんは、シンプルな黒のウェアの胸元に2本の長い三つ編みを揺らして、ビジターの女性に何か話しかけながら優しい笑顔で走っていた。